転悪成徳(てんなくじょうとく) 〜 テラの掲示板より 毎朝通りかかるお寺の掲示板より。 転悪成徳(てんなくじょうとく) 親鸞聖人(浄土真宗の祖)の言葉。悪を転じて徳と成す。 どんなに失敗しても、徳となって仏となれる。 つまり、どんなでも生き抜け、ということか? N的に解釈すれば。 似たような言葉に【災い転じて福となす】がある、と思う。 災いや失敗をしても、それが原因で福となる。 どんなに失敗しても、そのことで幸福に繋がるかもしれないという、何でもありの言葉。 どんなでも、今日一日を生き抜くか…
梅雨入りとブログを味わう つゆの身に 愚禿のブログ 眺め知る 梅雨入りか… 雨の中、部屋でゆっくりと自分のブログを見て味わおうと眺めていた。 そうして、愚かな自分の愚かなブログを眺めて、自分の愚かさを思い知ってしまう。 そういう味わい方。
肉体が滅ぶ(死ぬ)と“意識”はどうなるか 肉体が滅ぶ(死ぬ)と“意識”はどうなるか、について。 意識は混濁し、自分が何を伝えたいか、何をしようとしているのか、分からなくなる。 意識があっても、その意識を、ハッキリと保つことが難しくなる。 何も考えられない、何も感じなくなっていく。 意識とは、肉体(特に脳)に密接に結びついている。だから脳が損傷すると、無に近づいていく。 しかし色々な経験から、死んでも“意識”は、確かにそこに残っている。 そうは言っても、肉体と密接に結びついている、意識。 意識とは何か? 肉体や脳が滅ぶと、何も考えない、何も感じなくなる、意識。 意識 = “無” = しかし確かにそこにあるもの 肉体と関係がなくなった意識は、何も考えず、何も感じることなく、ただそこにある。 逆に、肉体と強く結びついている今は、考え(悩み、嘆き)、行動する(思い通りにならないことに不満を感じる)。 意識の真の姿とは、禅で言う“無”の状態のことではないか。 肉体から解放された状態のものが、意識の真の姿ではないか。 死んでも残る、“無の意識”。 “無我”の境地が『意識』ではないか。
露の身 くたびれて ぱたりと止まって ピンとくる この世は露の身 儚い時間 疲れ果てて、立ち止まって考えた。 この世はほんの少しの短い時間しかいない、そう考えることで、立ち止まるのではなく、前に進もうかと… そう思ったけど、やっぱり疲れてなかなか前に進まない。
ギリギリで踏ん張っているが、もうヤバイい 落っこちる スレスレの場所 もうヤバイ このままここで いいのだろうか ちょっと油断すると、ガラガラと落っこちそうです。 なんとか耐え忍んでいますが… いつまでもつのか…?
また、カネか お金達 飛ぶようにして いってしまう これは喜捨だと 言い聞かせる 喜捨:僧、寺社、或いは貧者に金品を施すこと。 または「お金、お金…」といつも思い悩むことを捨てること。 しかしよく考えたら… 僧や寺、神社もやっぱり… 金なのか? 持ち過ぎてはいけない、ということか? 持ち過ぎてはいないが。