ファーストクラスという入れ物

 ハゲトは今、出張帰りで特急列車の中にいる。

 仕事は頑張っているつもりだが、いつも空回りしがちだった。さらにハゲトのある思考パターンが、いつもいらぬことを考えさせ、ハゲトの仕事、ハゲトの人生を邪魔していた。

 混雑しているエコノミークラスの指定席で、疲れた体を沈めているハゲト。ふと、斜め前の席に座る男性が目に入った。ハゲトと同じくビジネスマン風の男性で、座席前の小さなテーブルを開き、そこにバインダー型の手帳、付箋がたくさん貼付けられているメモとノートを広げて、右手にはボールペンが握られていた。

 カリカリとバインダーにメモを取り、考え込み、またノートにもメモを取り、時々スマートフォンで調べ物をしたりしていた。列車の中でも時間を惜しんで、仕事に励んでいるようであった。

 その男性を見て、ハゲトは思う。

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全てうまくいくスイッチ

 ハゲトは人生に半分絶望していた。

 

 出世することも、お金持ちになる事もできず、夢を追いながら日々をなんとか生きている状態だった。私生活が特に充実していることもなく、生きているとうまくいかない事が多い、まるで意図的にうまくいかないように仕向けられているようだ、と感じていた。

 

 ハゲトは良く晴れたある日、気分転換をしようと思い立った。海岸の崖の上に、ほんの少し草が生えている場所を見つけて、そこに家から持ってきた座布団を敷いた。

 

 そこに座りこみ、海の向こうを見つめ静かに息を吐き出し、薄目になって自分のココロの中を覗いてみた。

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幻想の豪華客船

 これは、伝染病が世界に流行する前の話し。

 

 ナスカはお金を貯めて、念願の豪華クルーズ船の一週間の旅に出かけた。10万トンを超える超大型船で、そこでは艶やかで怠惰な生活が待っているはずだった。

 

 毎日フルコースが食べられるいくつものレストラン。イタリアン、フレンチ、アジアン、ステーキハウス、鉄板焼、寿司… 全ての料理ジャンルが網羅され、毎日極上のグルメが楽しめる。

 

 さらに、全て無料のビュッフェ形式のレストラン、24時間行くことができる軽食コーナー、もちろんコーヒー・紅茶は飲み放題だ。

 

 ナスカはワクワクしながらその船に乗船し、毎日を楽しみ尽くした上で、目的地の南の島に行く。そこは鳥が舞い魚が躍動している楽園だ。

 

 きらびやかなエントランスホールでは、たくさんの人々で賑わっている。これからの悦楽の旅を前に顔を綻ばせ、いい大人なのにはしゃいでいる。

 

 独りで乗船したナスカでも、全く寂しくなかった。数千人の乗客に加えて、千人以上の乗務員もいる。乗務員たちは乗客を最大限に愉しませようと努力を惜しまない、善良な人たちに決まっている。

 

 さあ、海側テラス付きのすばらしい部屋に荷物を放り投げて、薄着でラフな服装に着替えて船内に繰り出そう。

 

 好きなものを好きなだけ食べ、プールでちょっとだけ運動をして、その後は屋上デッキに並ぶデッキチェアでゴロゴロ。お腹が空いたらまた食べにいこう。

 

 屋上デッキには大きなプールがいくつもある。太洋に出ると一気に外が暖かくなるので、プールに浮いて1日中過ごす、なんてのもありだ。

 

 大型船ならではの豪華なホールでは、感動的で豪華な踊りや歌のショーが、連日繰り広げられる。

 

 そしてまた小腹が空くと、軽食コーナーでサンドウィッチやケーキ、ハンバーガーなどを炭酸飲料と一緒に食べた。

 

 

 夢のような暮らしだ。夢だ。これはきっと、夢に違いない。海の上でこんなにたくさんの食べ物があり、たくさんの“時間潰し”のための施設が備わっている。まるで地球上の富をここだけに集めたような、夢の楽園だ。

 

 

 今夜もスイーツ片手に、ショーをダラダラ観に行こう。その後は星空のデッキで寝そべってくつろぎ、寒くなったら部屋に戻って昼まで寝よう。

 

***

 

 そし三日後、ナスカはデッキの上で、くつろいでいるフリをしながら、苦しんでいた。

 

 食べ過ぎ、飲み過ぎ、運動不足で、体がおかしくなっているのだ。頭は痛く、お腹はゆるく、歩くときはフラついていた。

 

 なぜ、食べたいものを食べたいだけ食べたら体の調子が悪くなるの? 楽しいことしかしてないのに、なぜこんなに頭が痛くて気分が悪いの?

 

 体が欲してるから、食べてるだけじゃないの? 無理して食べてるわけではないわ。なのに、なぜ?

 

 ナスカはどこまでも広がる海の上で、よく晴れた紺碧の空を見上げていた。

 

*人間は元来、餓えた状態、厳しい生活にチューニングされているようだ。

 

消滅した世界の終わり

 月の無い夜の中、ハゲトは仕事帰りのたんぼ道を歩いていた。街灯は無く、控え目な街の明かりがわずかに視界を与えるだけで、暗闇が広がっていた。夏のべったりとした空気はハゲトの腕に纏わり付き、どろどろとハゲトを歩かせた。
 
 本来この夜の道は、遅くまで仕事をした後の癒しとしてハゲトの癒しになっていた。会社や社会て受けた『負の屑』を落としてから、一人住まいの自宅に戻るのが日課だった。
 
 しかし今夜は、心地好い夜風の中というわけではなかった。どろりとした重たい暑さに加えて、小さな虫が無数に飛んでいて体にまとわりつく。月明かりもない道は、不快だった。
 
 ハゲトは、一本の小さな乾電池を包み込むような形をした懐中電灯を持っていて、それは地面にくっきりと白い光の円を描いていた。すぐ足元のその異常に明るい満月が、道と田んぼの境界を示していた。しかしその強く白い光が、逆に周囲の暗闇を増幅させてもいた。
 
 
 暗闇が続く。
 
 ペタッ、ペタッっというハゲトの足音と、水が張られた周囲の水田から聞こえる蛙の声。蛙の声は騒々しかった。嫌な汗が背中を流れていった。
 
 ふと、ずっと前の方の暗闇の中に、何かが動いているのが見えた。
 
 ハゲトの足下では、相変わらずくっきりとした白い満月がある。その動くものは暗闇の中に、ポツンと青白い光を浮かせているのだった。
 
 深い暗闇の中に、青白く浮かぶ何か。それは徐々に、ふわふわと、ハゲトに近づいてくる… ハゲトは思わず立ち止まり、そのぼんやりとした光の正体を見定めずにはいられない。その光は、それは…
 
 それは、首の下からが無い、女の白い顔だった。闇の中に、ゆらり、ゆらりと揺れ動き、俯いて、無表情で、下を向いている。その冷たい目線は、いっさいハゲトには向けられていなかった。
 
 目はうっすらとその瞼を開けており、それに続く鼻筋はまっすぐに通り、青白い顔に映える真っ赤な唇が、半月状に吊り上がっている。美しく、悲しく、無感情で冷たい表情が、闇の中に浮かぶ。青白く光っている。
 
 ハゲトは恐怖でその場に立ちすくみ、白い満月を描き出している懐中電灯の光は、ピクリとも動かなかった。
 
 しゃらん、しゃらん…
 
 体は無く、青白く光る顔だけが、どんどんハゲトに近づいて来る! 女の顔はナバッハをチラリとも見ることなく、果てしなく深い井戸の底を覗き込んでいるような、悲しげな目線を下に向け続けている!
 
 あっ、とハゲトが声を上げたときには、顔しかないと思っていた白い女の体と激しく衝突した。ハゲトは脇の真っ暗な水田に落ち、茶碗一杯分の稲が倒れた。
 
……
 
 闇に青白く浮かぶ女の顔の正体は、夜の道でスマートフォンを食い入るように見ている若い女だった。液晶画面から放出されるブルーライトにより、暗闇の中に顔だけが青白く浮かび上がっていただけだった。
 
 しかしこの瞬間、世界にとって重大なことが発生していた。
 
 ハゲトが田に落ちたことにより、その場所で出来るはずだった茶碗一杯分の米が、この世界から消え失せた。そのことにより、スーパーマーケットに並ぶ米袋の数量に微妙に影響を及ぼし、二ヶ月後にスーパーマーケットに行ったそのスマホ女は、米が買えなかった。
 
 その日のスマホ女の夕食は、パンとなってしまった。そして翌日、友人との食事でどうしても米が食べたくなり、予約していたパスタの店はキャンセルし、和食の店に行った。
 
 行くはずであったパスタの店で、若い男性の店長は、「Reserve」と書かれた札が置かれたテーブルを眺めた。そのテーブルに来るはずだった若い女性の声の持ち主は、今日は来ないことになった。
 
 その店長とスマホ女は今日、ここで出会うはずであった。そして結婚をし、この店を二人で経営していく未来があった。
 
 しかし、その未来は取り消された。
 
 代わりに、和食の店での未来が続く事になった。パスタ店の店長の代わりに、和食店の店長の目にとまった。
 
 スマホ女と和食店の店長は運命的な出会いを果たし、子供が生まれた。
 
 その子供は成長してまた子供が生まれ、その子供からまた子供が生まれた。5世代先まで繋いでいった時、世界の危機があった。戦争になりかかった時(人間は相変わらず愚かだった)、スマホ女の子供の子供の子供の孫が、当時の世界的指導者の助言者に意見をする役割が巡っていた。助言者への一言が、指導者の考え方を変えた。そして世界は滅亡を免れた。
 
 あの夜、スマホ女とハゲトがもし衝突しなければ、世界は五世代後に終末を迎えていた。

時のエレベータ

 仕事にヘトヘトになったハゲトは、駅に向かって田んぼ道をトボトボと歩いていた。辺りはもうすっかり暗くなっていた。広がる田んぼの先に、暗闇に浮かぶ駅舎の明かりが見えていた。

 

 近くまで到着したハゲトは、二階にある改札口を見上げた。二階に上がるためには、階段と、もう一つは稼働して何十年になるか分からないエレベータがあった。そしてハゲトは、うす汚れた上向きの矢印ボタンをガチャリと押した。

 

 エレベータのカゴは二階にあるようで、ボタンを押しても目の前のドアは、なかなか開こうとしない。我慢強く、じっと待つ。

 

 そして、ガタガタとエレベータ入り口のドアが開いた。ハゲトはエレベータに乗り込み、側面の「2」と書かれた四角いボタンをガチャリと押した。ハゲトの背後で、ガタガタとドアが閉じた。

 

 ウィ~ンという鈍い音がして、エレベータが動き始める。極めてゆっくりとした動きだった。

 

 ウィ~ン

 

 ウォンウォンウォン

 

 いつまでも二階に着かない、いつまでも。ウィ~ンという音だけが、耳にゆっくりと入り込んでくる。

 

 いつまでも、二階に着かない。

 

 音と、ガタガタとした小さな振動は感じている。動いていることは確かだった。しかし、いつまでも、二階に着かない。そして、腹も減らない。トイレにも、行きたくならない。

 

 もしかすると、止まっているのか。

 

 時間が、もしかすると止まっているのか。

 

 全く、疲れない。

 

 この状態は、時間が止まっている、と言って差し支えないのではないか、といった考えがハゲトに浮かぶ。いつまでも二階に着かないこのエレベータ・カゴの中は、時間が止まっている。いや、この果てしない時間の経過でも、疲れや飢餓や、眠気がいつまでも来ないだけなのかもしれない。

 

 とするとつまり、欲望や不満、喜びや怒り、疲れを経験することにより、初めて時間は進むのか。そうすることでようやく、時間を認識できるのではないか。

 

 特に不満が無いと、時間は止まる。

 

 満足した状態がずっと続いていたら、時間は止まっている。

 

 逆のことも言えるだろう。不満がずっと続くと、やはり時間は止まる。そして…

 

 満足や不満が織り成すことで、初めて時間は進む。ハゲトが普段生活している世界では、時間は進んでいる。

 

 感じている。

 

 ハゲトの乗ったエレベーターは、二階に着いた。