1-2:始まりのプラットホーム

 全員が規則正しくそれぞれの列車に乗ってしまったプラットホームで、乗り遅れたナスカは一人、はらはらと泣いていた。“チコク”というこれから貼られるレッテルに身を震わせ、未来の希望は塩味の涙になって流れ落ちていった。
 

 風がプラットホームに吹き込み、ナスカの髪をサラサラと動かした。座り込んだナスカの足元から、規律を厳守する人々の残滓が吹き流され、ツルリとしたプラットホームの床は硬質な静寂が張り付いていた。
 
 一陣の風。静謐のプラットホーム。
 
 誰もいないのをいいことに、ナスカはいつまでも座り込んで床の一点を見つめていた。そこには小さな黒いシミがついていた。擦っても擦っても取れることはない、極めて硬質なシミだった。
 
 ブーン、という警笛ともブザーとも違う低い音が、プラットホームの後ろの方から聞こえてきた。ナスカが顔をほんの少しだけ上げると、プラットホームにメタリックブルーの列車がするすると入ってきた。ガタゴトという音は全く無く、ゆっくりと滑るようにナスカとの距離を縮め、目の前でピタリと停車した。直ちにたくさんのドアが、パシャっという極めて小さな音を立てていっぺんに開いた。プラットホームに残されている乗客は、ナスカ一人しかいなかった。
 
 ナスカはヨロヨロと、しかしこれ以上絶対に遅れるわけにはいかない決意をもった力強さで立ち上がり、タタタっと慌てて乗り込んだ。ナスカを収納したメタリックブルーの列車は、今度はピシャっという鋭い音を立てて、ドアを一斉に固く閉めた。今日の重大な仕事はこれで終わったという決意が、ドアの閉まり方に込められていた。
 
 列車は動き出した“ようだった”。スルスルと動く列車に揺れは殆どなく、滑らかな水面を移動するアメンボのように、滑らかで軽快だった。シンと静まり返った車内には、他に乗客は誰もいなかった。いつもと雰囲気がまるで違う車内で、ナスカはボックスシートの側に立っていた。照明は抑えられ、車窓から動きのある眩しい光が、音もなく加速しながら流れ込んでいた。
 
 ナスカは目を擦り、一本遅れただけで普段の列車とこんなに違うの?と思った。まだ通勤時間帯だというのに、この車両にはナスカしか乗ってない。それどころか、列車の編成全体を含めても、乗客はナスカただ一人なのかもしれない。
 
 ナスカは希望無く崩れ落ちるように、向かい合わせになった座席の奥に座り込んだ。明るく差し込んでくる車窓はナスカの絶望とは関係無く、ちゃんとしたリズムで外の景色を変えていった。駅を出るとすぐに高架橋を渡り始める… そこまではいつもと同じだった。
 
 ナスカはぼんやりと、普段よりちょっと高いところを走っているように見える、と感じ始めていた。いつも眺めている街が、高いところから見下ろしているように感じる。いや、感じでいるのではなく、確かにいつもより目線が高い。創出され始めたナスカの疑念を振り切るように、列車は大きなカーブを描きながら軽やかに登っていった。
 
 慌てて乗ってしまったので、乗り間違えてしまったのかもしれない。それとも、何か重大な事が起こっていて列車の行き先が変更になったのかもしれない。しかしこの路線には分岐は無く、終着駅まで一本だったはず… いや、分岐が一箇所だけあったかな?と考えている内にも、見たこともない高さまで列車は高度を上げていた。15階建のマンションの屋根が見え始めるくらいに。
 
 相変わらず音もなく、スルスルと下がっていく街の屋根。大きなカーブを描きながら、この列車はどこか高い場所の目的地に向かって、山岳鉄道のように高度を稼ぎ続けている。
 
 それはまるで、絶望という絶壁を上り詰めていき、日常から逃げていくナスカを、ぐるぐるとかき混ぜているようだった。
 
「ヤッホー、私のナスカちゃん」
 
 誰もいないはずの向かいの席に、金髪の女が座っていた。ナスカとちょうど同じ歳くらいの、真っ白なワンピースを着た派手な女だった、黄色の小さなリュックのようなものを背中に下げている。
 
「元気ないね〜、遅刻したくらいで」
 
「… なんであんたが知ってるの?」
 
 ナスカはその女に馴れ馴れしく応えた。ずっと前から知ってるような、幼い頃から一緒にいたような、そんな感覚で。
 
「そりゃナスカのことは何でも知ってるよ〜。ずっと一緒じゃん?」
 
 感覚は分かるが、理解できない。ナスカはこの女と会ったことはないし、見たこともない。しかし、よく知っている。この女の名前はアナスカ…
 
 やはりこの列車の中で、何か重大なことが起こっている。
 

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