川に浮いたサッカーボールに、同情できるか?

川の側を歩いていると、そこにサッカーボールが浮いていた。
 
川の中で、洗剤か何かの泡と一緒に、そこに留まり続けている。
 
川岸には打ち捨てられたビニール袋が、落ちていた。
 
サッカーボールがそこに留まっている理由は、そのビニール袋が、友達だから。
 
 
 
サッカーボール
友と一緒に
そこで待つ
 
汚れた中で
そこで待つ
 
 

駅前のカミサマ

駅前で
立っておられる
  今日もまた
 
大丈夫
大丈夫
 
 
 
 
 身なりの侘しいおじいさんが、毎日のように深夜の駅前に立っておられた。
 
 そして、疲れ果ててトボトボ歩く人たちに手を掲げて「大丈夫だよ、大丈夫だよ」と、声をかけておられた。
 
 最近は、フッと、おられなくなった。

悔しい! 悔しい!! 悔しい!!! だがそれでいい

某漫画のセリフの一つ。
 
それにN的な解釈を加えた…
 
 
悔しい! 悔しい!! 悔しい!!!
 
周りの人間は、株で儲かったことや、昇進・昇給のこと、そして海外旅行の話しで盛り上がっている。
 
反対に自分っ…!  
儲かるどころか借金は増え、年齢を重ねるごとに年収は下がっている…!
 
談笑の輪にいても、自分は笑っていない! 笑える心理状態ではない!
 
 
悔しい! 悔しい!! 悔しい!!!
 
 
 
 
… だが、それでいい。
 
 
 
生きる意味の一つを今、経験している。
 
生きている証。
生きて生きて、生きればいい。
 
それが己の生き様ならそれでいい。
 
悔しいと思うのなら、悔しいと思えばいい。
 
 
 
 
 

生暖かい夜

蛙鳴く
静まる夜風
ヒーリング
 
 
 
 
 
 
うるさく賑やかなところ(会社)から、フッと静かな夜(田んぼ道)に出た。
 
静かな夜が身に染み入り、急速に癒されていく…

転悪成徳(てんなくじょうとく) 〜 テラの掲示板より

毎朝通りかかるお寺の掲示板より。
 
 
 
転悪成徳(てんなくじょうとく)
 
 
親鸞聖人(浄土真宗の祖)の言葉。悪を転じて徳と成す。
 
 
どんなに失敗しても、徳となって仏となれる。
 
 
 
つまり、どんなでも生き抜け、ということか? N的に解釈すれば。
 
 
 
 
似たような言葉に【災い転じて福となす】がある、と思う。
 
 
災いや失敗をしても、それが原因で福となる。
 
 
どんなに失敗しても、そのことで幸福に繋がるかもしれないという、何でもありの言葉。
 
 
 
 
どんなでも、今日一日を生き抜くか…
 

櫛風沐雨(しっぷうもくう)

走り梅雨
てんてこ舞ってる
櫛風沐雨
 
 
 
 
 
 
忙しい… やること多すぎる…
 
雨が舞ってる、それでも働きに出掛ける。
 
これが噂の、櫛風沐雨というやつか

梅雨入りとブログを味わう

つゆの身に
 
愚禿のブログ
 
眺め知る
 
 
 
 
 
 
 
 
梅雨入りか…
 
雨の中、部屋でゆっくりと自分のブログを見て味わおうと眺めていた。
 
そうして、愚かな自分の愚かなブログを眺めて、自分の愚かさを思い知ってしまう。
 
 
そういう味わい方。

肉体が滅ぶ(死ぬ)と“意識”はどうなるか

肉体が滅ぶ(死ぬ)と“意識”はどうなるか、について。
 
 
 
意識は混濁し、自分が何を伝えたいか、何をしようとしているのか、分からなくなる。
 
意識があっても、その意識を、ハッキリと保つことが難しくなる。
 
何も考えられない、何も感じなくなっていく。
 
意識とは、肉体(特に脳)に密接に結びついている。だから脳が損傷すると、無に近づいていく。
 
しかし色々な経験から、死んでも“意識”は、確かにそこに残っている。
 
そうは言っても、肉体と密接に結びついている、意識。
 
 
意識とは何か?
 
 
肉体や脳が滅ぶと、何も考えない、何も感じなくなる、意識。
 
意識 = “無” = しかし確かにそこにあるもの
 
肉体と関係がなくなった意識は、何も考えず、何も感じることなく、ただそこにある。
 
逆に、肉体と強く結びついている今は、考え(悩み、嘆き)、行動する(思い通りにならないことに不満を感じる)。
 
意識の真の姿とは、禅で言う“無”の状態のことではないか。
 
肉体から解放された状態のものが、意識の真の姿ではないか。
 
死んでも残る、“無の意識”。
 
 
 
“無我”の境地が『意識』ではないか。