世界の起点

 

 ナスカは初夏の明るい夕方、空が映り込んでいる水田の間を歩いていた。

 

 アスファルトの黒く硬質な直線が、水田の間をまっすぐに伸びていた。

 

 ナスカの周り一面には、水が張られた何枚もの水田が広がっていた。風はなく水田はピタリと静止していて、昼間と夕方の間の空を寸分の狂い無く映し出している。空の色と、水の色と太陽の光が混ざってそれは、何枚も隙間なく敷き詰められていた。

 

 それは水で出来ているのに、硬質で銀色に輝く平滑な鏡のようだった。

 

 ナスカは、まるでここは物語の世界だと思った。むしろ、そう思って楽しむことにした。一歩進むごとに現実の世界から離れて、硬質な異世界に入り込んでいく。

 

 ここは物語の中なのだ… 銀の板が敷き詰められた世界を、一人歩く女。

 

 銀の板は無限に広がっていて、振り返ったとしても元の世界はすでに無い。いつもそこにある鉄道の高架や建物の影は無くなっていて、完全に孤独で静寂が支配する世界にただ一人、ナスカはいるはずだ。

 

 そもそも今、ナスカがいる世界が物語の中なのか現実なのか、という証明は誰にも出来ない。物語の中であれば、創造者がその登場人物にそのことを気付かせなければよい。つまり、この銀の板の世界が物語の中ではない、とは言えない。

 

 であるならば、一刻も早く自宅に帰り明日の仕事に備えなければならないという義務感など捨て、この美しい世界に居続けてもいいではないか。ナスカの願望を優先させてもいいはずではないか。

 

 銀の板の縁に、ナスカは腰を下ろした。草むらは銀の板にむけて傾斜しており、銀の板は夕日に染まる空を映していた。銀の板を見おろすようにナスカは座った。

 

 風が微かにほおを撫でた。暑くもなく寒くもない、静寂な時間と空間。現実から完全に切り離されたこの豊かな時間の中に、ナスカは身を沈めた。

 

 ナスカただ一人が存在する、現実とはかけ離れした美しい世界だった。誰の視線もなく、誰もナスカの声を聞いていない。見渡す限り、銀の板だけが広がっている。

 

 ナスカはここで、自分が解放されていくのを感じた… 無限に広がるこの世界には、ナスカただ一人だ。ナスカの中で抑圧の圧力弁が開いていき、体の中から命の力というものが湧き上がってくる。

 

 一人と世界の一つが、何者にも邪魔されることなく溶け合っていく。

 

 眼下では、銀の板が空の中にナスカを映している。

 

 生暖かい風に体を撫でられ、開放感と恍惚が世界を包んでいく。ナスカはフラフラと立ち上がり、銀の板へ歩き出した。銀の板は硬くつるりとしていて、鋭い表情だった。

 

 空を… 見上げているのか、銀の板に映る空を見下ろしているのか、ナスカにはよく分からなかった。

 

『このまま現実世界に戻らなくてもいいか… あっ、これが現実』とナスカは考えた。

 

『今… 何もいらない。今までも… 何かを求めて歩いてきたわけではないわ。何かに向かって生きているわけでもないのに』
 
 つまりは、今の一瞬に目を向けると、ナスカは銀の板の上を歩いている。それが全てだった。今、何を思っているのか、どこにいるのか、或いはそうでないか。
 
 ナスカはこの点に、既に気づいていた。すなわちそれは、この瞬間を起点として自分を認識しているかどうか。今、銀の板の上を歩く自分を起点として、世界を認識しているかどうか。
 
 そして、行動し、受け入れる幅を増大させ、得られるものの幅を無限に広げていく。それが、ナスカの生き方と言えた。
 
 銀の板の世界に存在しているナスカはその時、幸福感に包まれていた。
 
『また、旅に出かけよう』
 
 ナスカは歩き始めた。

 

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