消滅した世界の終わり

 月の無い夜の中、ハゲトは仕事帰りのたんぼ道を歩いていた。街灯は無く、控え目な街の明かりがわずかに視界を与えるだけで、暗闇が広がっていた。夏のべったりとした空気はハゲトの腕に纏わり付き、どろどろとハゲトを歩かせた。
 

 本来この夜の道は、遅くまで仕事をした後の癒しとしてハゲトの癒しになっていた。会社や社会て受けた『負の屑』を落としてから、一人住まいの自宅に戻るのが日課だった。
 
 しかし今夜は、心地好い夜風の中というわけではなかった。どろりとした重たい暑さに加えて、小さな虫が無数に飛んでいて体にまとわりつく。月明かりもない道は、不快だった。
 
 ハゲトは、一本の小さな乾電池を包み込むような形をした懐中電灯を持っていて、それは地面にくっきりと白い光の円を描いていた。すぐ足元のその異常に明るい満月が、道と田んぼの境界を示していた。しかしその強く白い光が、逆に周囲の暗闇を増幅させてもいた。
 
 
 暗闇が続く。
 
 ペタッ、ペタッっというハゲトの足音と、水が張られた周囲の水田から聞こえる蛙の声。蛙の声は騒々しかった。嫌な汗が背中を流れていった。
 
 ふと、ずっと前の方の暗闇の中に、何かが動いているのが見えた。
 
 ハゲトの足下では、相変わらずくっきりとした白い満月がある。その動くものは暗闇の中に、ポツンと青白い光を浮かせているのだった。
 
 深い暗闇の中に、青白く浮かぶ何か。それは徐々に、ふわふわと、ハゲトに近づいてくる… ハゲトは思わず立ち止まり、そのぼんやりとした光の正体を見定めずにはいられない。その光は、それは…
 
 それは、首の下からが無い、女の白い顔だった。闇の中に、ゆらり、ゆらりと揺れ動き、俯いて、無表情で、下を向いている。その冷たい目線は、いっさいハゲトには向けられていなかった。
 
 目はうっすらとその瞼を開けており、それに続く鼻筋はまっすぐに通り、青白い顔に映える真っ赤な唇が、半月状に吊り上がっている。美しく、悲しく、無感情で冷たい表情が、闇の中に浮かぶ。青白く光っている。
 
 ハゲトは恐怖でその場に立ちすくみ、白い満月を描き出している懐中電灯の光は、ピクリとも動かなかった。
 
 しゃらん、しゃらん…
 
 体は無く、青白く光る顔だけが、どんどんハゲトに近づいて来る! 女の顔はナバッハをチラリとも見ることなく、果てしなく深い井戸の底を覗き込んでいるような、悲しげな目線を下に向け続けている!
 
 あっ、とハゲトが声を上げたときには、顔しかないと思っていた白い女の体と激しく衝突した。ハゲトは脇の真っ暗な水田に落ち、茶碗一杯分の稲が倒れた。
 
……
 
 闇に青白く浮かぶ女の顔の正体は、夜の道でスマートフォンを食い入るように見ている若い女だった。液晶画面から放出されるブルーライトにより、暗闇の中に顔だけが青白く浮かび上がっていただけだった。
 
 しかしこの瞬間、世界にとって重大なことが発生していた。
 
 ハゲトが田に落ちたことにより、その場所で出来るはずだった茶碗一杯分の米が、この世界から消え失せた。そのことにより、スーパーマーケットに並ぶ米袋の数量に微妙に影響を及ぼし、二ヶ月後にスーパーマーケットに行ったそのスマホ女は、米が買えなかった。
 
 その日のスマホ女の夕食は、パンとなってしまった。そして翌日、友人との食事でどうしても米が食べたくなり、予約していたパスタの店はキャンセルし、和食の店に行った。
 
 行くはずであったパスタの店で、若い男性の店長は、「Reserve」と書かれた札が置かれたテーブルを眺めた。そのテーブルに来るはずだった若い女性の声の持ち主は、今日は来ないことになった。
 
 その店長とスマホ女は今日、ここで出会うはずであった。そして結婚をし、この店を二人で経営していく未来があった。
 
 しかし、その未来は取り消された。
 
 代わりに、和食の店での未来が続く事になった。パスタ店の店長の代わりに、和食店の店長の目にとまった。
 
 スマホ女と和食店の店長は運命的な出会いを果たし、子供が生まれた。
 
 その子供は成長してまた子供が生まれ、その子供からまた子供が生まれた。5世代先まで繋いでいった時、世界の危機があった。戦争になりかかった時(人間は相変わらず愚かだった)、スマホ女の子供の子供の子供の孫が、当時の世界的指導者の助言者に意見をする役割が巡っていた。助言者への一言が、指導者の考え方を変えた。そして世界は滅亡を免れた。
 
 あの夜、スマホ女とハゲトがもし衝突しなければ、世界は五世代後に終末を迎えていた。

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