劣等感の男エヌ【1】 ─ ベルトの穴にやられた男

2018年3月23日

劣等感の男エヌは、大きな会社のうだつの上がらない会社員だった。しかし、やるべき事はやるべき事としてやっていた。何事も手を抜かず、いつも最大限にパフォーマンスを発揮出来るように自分を調節していた。そしていつも、プレゼンテーションなどでは自信たっぷりに話しをした(そこが彼の最大の仕事上の欠点でもあった)。

プレゼンテーションの直前に、エヌはさっき食べた昼食(近くのコンビニエンスストアで買った、そこそこの量の菓子パン類)が腹をきつくしている事に気付き、ベルトを緩めようとした。そして、自分のベルトが傷んでいる事に気づいてしまった。ベルトの穴が、傷んでいた。

不摂生により腹が出て、それを無理やり押さえつけ、締め付け、酷使されたベルトの穴。ベルトの留め金を無理に通され楕円形にひん曲がったベルトの穴達。おまけに表面の『ビニールで出来た皮』が穴の周囲で剥げており、下地の茶色のビニールだか紙だか分からないものが見えていた。それはベルトの穴の周辺だけでなく、ベルト全体を貧相な雰囲気にさせていた。

エヌは唖然としてそれを眺めた。そして、前にプレゼンテーションを行った男性が演壇から下りてくるときに、鋭い目線で彼のベルトと自分のベルトを比較した。

エヌの前にプレゼンテーションを終えた彼のベルトの穴は、正確なベルトの穴だった。円だ。小さな円。その円の周囲の『本革』はピンとしており、剥げているところはどこにもない。綺麗な真っ黒のベルトで、綺麗なままの穴達が並んでいた。ちゃんとしたベルトだった。

エヌはその事に気付いた瞬間から、絶望的であった。まるで、深い谷の上で後ろから知らない男に突然押されて、谷底に落とされたような気分だった。

自分がどうしようもなくみすぼらしく、劣っているようにしか考えられないようになった。あいつはちゃんとしている、私はみすぼらしい。あいつは年相応のものを身に付けている、私はいい年をしてみすぼらしいものを身に付けている。あいつは──私は──
エヌは『ベルトの穴』に完全にやられていた。小さな小さなベルトの穴ごトキに、完膚なきまでに打ち負かされていた。小さな穴に、エヌの全てを奪われた、直径5ミリにも満たない穴に。

そこには、オドオドと話しをする男が立っていた。そのどこにも自信を感じさせるものはなく、目は泳ぎ、まるで落ち着きがなかった。

そして実際、その男の傷んだベルトの穴など、誰も見ていなかった。誰もそんなことに興味がなかった。

エヌは、ベルトの穴にやられた。

 

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