ナスカの旅 1-5:ガイドの娘(1章おわり)(170626改)

 シマでの二日目。ナスカは海の見えるホテル内のレストランで朝食を摂っていた。そこでは皆、今日一日を楽しむ準備を急いでしているかのように、忙しくビュッフェスタイルの広いレストラン内を動き回っていた。ナスカは一切れのパンと小さなバターのカケラと、野菜の入ったスープだけをテーブルの上に載せていた。隣りのテーブルに若い男女が座った。その二人は、何か気だるい雰囲気を持っていた。ナスカは食べる手を一度止め、片肘をテーブルについて窓に顔を向けて小さなため息をした。

 朝食の後に一度自分の部屋に戻り、バルコニーから朝の海を眺めながらゆっくりと過ごした。ナスカはこれから、このシマの象徴的中心である城郭跡を訪ねることにしていた。

 バスでホテルを出発し、まずは帰りの飛行機にのる空港に向かった。空港で大型のロッカーを見つけてそこで大きな荷物は預けてしまい、それから城郭跡に行くつもりだった。空港に向かうバスの中と空港は人でいっぱいだった。

 都市の中の人の多い空港で、大型のロッカーを見つけ出すのは思ったより簡単だった。空港の出入口のすぐ側にロッカールームはあった。それはロッカーのある部屋と言うより、広くて開放的なロッカーコーナーだった。きっとナスカのように帰りの空港で荷物を置いてしまってから、飛行機までの時間を観光に充てようと考える人が多いのだと思った。

 捜し当てたロッカーにコロの付いた大きめの鞄をロッカーに押し込め、ナスカは雑踏の中のベンチで一息ついていた。これからのことをボンヤリと考えていた。今日一日のこと、飛行機に乗って帰ってからのこと、明日からの仕事のこと… 今以上、先のことを考えるとなんだか気分が落ち込んできた。そんなナスカの周辺視野に、若い娘が歩いている姿が視界を掠めた。褐色の肌をした胸の谷間と腰が見える白いシャツと、ベージュのサブリナパンツを身につけ、足早に空港の出口へ向かって行った。10代に見えるその娘はナスカと同じように、今から飛行機までの時間、どこかに観光に出掛けるように見えた。しかし、もうどこかへ行ってしまった。

 ナスカは大きな荷物はロッカーに入れて、動きやすい細身のブルージーンズと黒と白のストライプのポロシャツと、帽子や日焼け止めや上着や化粧類、財布、コンパクトカメラ、日傘、スマートフォンの小さな携帯用バッテリー等、必要なものが全て入った肩掛けカバンを抱えて、褐色の娘が行った同じ方向に歩き出した。

……

 島の中心に広がる広大な丘全体が、昔の城跡の跡だった。美しくカーブした城壁が緑の丘を切り取っていた。直線的に切り取るのではなく、滑らかな曲線で緑の丘に寄り沿うように作られていた。所々で人が通るための通路があけられていた。丘の頂上には、再現された木組みの建築物群があるらしかったが、ナスカはその建築物群には興味はなく、緑の丘と美しいカーブを描いた城壁と青い空のコントラストを見に来たのだった。

 街の方から遺跡の入口に少し入ると、目当てであった光景が一望できた。草色の土台から斜めに立ち上がる石の城壁はあくまで曲線的で、滑らかだった。それはしなやかなカーブのみで構成されていて、ナスカのしなやかな腰の曲線のようであった。その曲線が透き通る青い空との境界線までくると、今度は逆に直線的に、すっぱりと空を切り取っていた。まるで、バターナイフで掬ったあとの、バターの固まりようだなと、ナスカは思った。人工的ではなく、それでいて自然とは切り離された、中性的な存在感だった。

 しかし、とナスカは考える。目の前に広がる美しいコントラストは、大昔とは言えないくらい最近まで、「敵」から城を守るために造られたものに違いなかった。そしてこの城全体も「要塞」であって、それは戦争に関するものであることにナスカは思いを巡らせた。私たち観光客は殺し合いを目的とした遺物の中をウロウロしながら、美しいだとか綺麗だとか言っているのだ。そこには自分も含まれている。なんと滑稽なことかとナスカは思う。

 ナスカは城郭跡の入口で立ち止まって、そんな滑稽な観光客(もちろんその中にナスカも含まれている)と美しい曲線と空のコントラストを眺めていた。大勢の観光客が目の前を通り過ぎて行った。

 その中に、褐色の肌をした若い娘が一人で通り過ぎていくのを見つけた。空港で見かけた娘に間違いなかった。

 緑の丘と城壁と空のコントラストで満足してしまっていたナスカは、仰ぎ見る小高い丘を登る気はほとんど失せていた。そのため、褐色の娘が通り過ぎてしばらく経つまで、そこでじっとしていた。ナスカはあの褐色の娘に親近感を覚えていた。その娘に引っ張られるように、ナスカは仕方なくとでも言うように、ゆっくりと丘に向かって歩き出した。城郭跡は分かれ道がいくつかあって、その娘をもう見つけることはできなかった。

 黙々と一人の丘を登っていく。初夏の太陽がナスカの白い肌を照らし、登るにつれて汗ばんでいった。あの娘はこのような日差しには慣れているのだろう、と考えた。褐色の肌を多く晒し出しているのだから。ナスカは鞄の中から畳んであった帽子を取り出して被った。

 観光客は少なかった。広い城郭跡であり、人の密度が低いだけかもしれなかった。時折すれ違う、または追い越していく人達は、皆、誰かと一緒だった。一人で登るのはナスカと、あの褐色の娘だけのように思えて、ますますその娘に会いたくなった。見失わないように追っていけばよかったと思ったが、どこにもその娘は見当たらない。

 いくつかの城壁を潜り、所々で曲がっていく階段を上り続けると、城郭跡の一番高いところが目の前に表れてきた。観光案内パンフレットやインターネットで見ていた通りの、再現された建築物が見えた。

 この手の建築物、特に再現されたものを実物で見るのと、写真で見るのとで、どこまでその行為に差があるのか、ナスカには分からなかった。写真で見る方が、細部までじっくりと見ることができる。実物はその時の天候、気温、気分によって、どこまでじっくりと見ることができるか分からない。だから、ナスカは城郭跡の頂部まで登るつもりはなかったのだった。あの褐色の娘が、ナスカをここまで登らせたのだった。

 城郭跡の頂部の広場まで来ると、写真で見る通りの建築物の一群が、写真で見る通りに広場を囲むようにして建っていた。明るいこのシマの象徴的中心で、赤い建築物群がナスカを取り囲んで嘲り笑っているように思えた。

 強い陽光の中に一人立つナスカは、孤独感を覚えた。今まで一人旅をして寂しいとは思ったことがなく、この感覚は初めてだった。このシマの開放的で明るい雰囲気が、一人のナスカに初めてそのような感覚を生ませたのかもしれない、と分析することができた。そしてこの開放的なシマでは、自分一人の閉じた世界で楽しむというより、まわりの物や人や世界と一体となり、共感することで味わう場所なのかも知れないと思った。

 広場は赤い建築物で囲まれていて、丘の上からの期待される眺望は全くなかった。この広場は丘の頂部であることを隠しているかのように、回りを完全に建築物で囲んでいた。ここは町から離れた高い場所であることを否定し、平地であるという錯覚を狙っているような作り方だった。

 観光客達は主殿の横にある建築物群への入口と思われる場所に、次々と吸い込まれていた。ナスカはますます孤独感を感じた。褐色の娘はそこに入っていったのだろうか。しかしナスカにとって目の前の再現された建築群に、同じようにそこに入っていくくらいの魅力を感じることは難しかった。

 広場の正面に堂々と立ちはだかる主殿の後ろに回り込めば、シマが一望できるかもしれない、とナスカは考えた。ナスカはぐるりと辺りを見渡してみて、主殿の脇にある、一階部分には建物のつながりがなく、そこだけは2階の渡り廊下で建物と建物が繋がっている部分を見つけた。そこを抜けると眼下に広がる街が一望できる、とその時は考えていた。

……

 建築物群を抜けると、そこから一望できたのは、さらに緑の丘が続く光景だった。事前の情報や知識から、赤い建築物群で囲まれた広場が城郭跡の頂部だと思っていた。そうであるはずだった。しかしナスカの目の前には、遥か先まで続く緑の丘と、小さな道と青い空の現実が横たわっていた。

 遠くまで続くその丘の頂上には、石が階段状に積まれたピラミッドのようなものが見えた。そしてその遺跡のようなものに続く丘の小道に、一人で歩く褐色の娘を見つけた。

 ナスカは今度こそ、急いでその娘に追いつこうと新しい丘に向かうことにした。ナスカのいる場所から丘に続く道までは、下り階段が続いているようだった。一度下ってから、また上るようだった。丘に続く道は観光案内もなく、道はひどく曖昧だった。再現されたものではなく本物の遺物らしき壁が所々にあり、先が見通せない道が多かった。ナスカはおおよその方向だけを意識しながら、小さな道を手探りで進むかのようにして歩いた。そのためか、ナスカ以外にはこの先の丘に向かおうとしている観光客はいなかった。

 城郭跡と新しい丘の境界線上を抜けると、あとは緩やかな緑の丘に続く小道が、丘の先にある石積みの遺跡まで見通せた。その遺跡のほど近くまで褐色の娘は進んでいた。

 その小道はよく見ると、足元は石で舗装されていた。細かな石で丁寧に舗装されているところもあれば、煉瓦のような大きさの石で舗装されているところもあった。どちらも長い年月により表層は草で覆われた部分が多くあったが、歩きにくいと言う程でもなかった。道のまわりには低木の類のものは生えていたが、大きな木は一本もなかった。見渡す限り緑色の草地になっていて、そのなかに土色の石で舗装された小道が続いていた。

 不思議なことに、この丘からは街は見えなかった。そのかわり、青い空の下に青い海が広がっていた。青い海に丸いカーブを描く丘が浮かび、青い空が背景にびっしりとあった。そして丘の頂部(今度こそ頂部だ)には、岩山か石で出来た遺跡がどっしりと置かれていた。その遺跡のようなものは、存外、大きいかもしれなかった。その遺跡の底部、登り口と思われる場所に、褐色の娘は向かっているらしかった。

 ナスカは肩に掛かった鞄の紐を押さえながら、その娘のいるところに向かって黙々と歩いた。スニーカーと石の舗装が定期的に擦れる音と、風の音と、ナスカの息をする音が聞こえていた。道を進むに従って、遺跡の登り口に立つ褐色の娘はナスカを待っているとしか思えないようになってきた。そしてこの辺りには、褐色の娘とナスカの二人しかいなかった。

 遺跡の手前までくると、急峻な階段が現れた。それはナスカにここに来ることの覚悟を最後に確かめているようだった。その階段の真下までくると褐色の娘が見えなくなった。ナスカは覚悟を決めるように、急ぎ足でその急峻な階段を登った。

 そこは平らな台地になっていて、その上に遺跡が建っていた。そして遺跡の下には、褐色の娘が手をヘソの上に重ねて、静かな表情で黙って立っていた。ナスカを見て、懐かしむような表情でにこりと一瞬だけ表情を崩し、また元の静かな表情に戻した。そして娘の背後には、小高い岩山のような遺跡が建っていた。

 一人ではとても持つことができそうにない大きな石で組まれた遺跡だった。或は、山がはじめにそこにあり、その山に大きな石を貼付けるように置いていったのかも知れなかった。石は不揃いに四角く切り出され、角は長い風雨に晒されて丸みを帯びていた。所々が苔に覆われ、石と石の間からはそこから抜けだそうとするかのように小さな樹や草が生えていた。

 「さあ、ここを一緒に登りましょう」と、娘は遺跡の頂上に向かっている階段を指差しながら言った。髪はショートで、顔つきはナスカにどことなく似ているようでもあった。
 「あなたも一人でここに来てるの?」とナスカは聞いた。
 「今はあなたと二人よ」と娘は答えた。確かに今は二人だった。
 「こんな場所があるなんて、どこの情報にもなかったわ」「ここは、どんな情報にも載ってないところ」と、娘は既に十段以上登ったところから言った。ナスカは慌てて後に続いた。

 人か何かが作った石積みで組まれた、丘のように大きな遺跡だった。急峻な階段状の登り道があり、道は二人が並んで歩けるくらいの広さでとても古く、曲がりくねっているようでいて、実は頂上に向かって一直線に登っている。道の両脇の壁のようなものが所々崩れて、それが階段を曲がりくねっているように錯覚させていた。階段の両脇は草や低木で所々覆われていたが、階段自体は乾いており、滑るようなことはなかった。

 娘が先に進み、その後をナスカがついていく。所々、壁が崩れ落ちた部分に手を掛けながら登っていく。娘は時々振り返って、ナスカがしっかりとついてきているかどうか確認した。二人は基本的に、黙々と登っていった。娘の方がペースが速く、ナスカよりも体力があるようだった。

 「この先には何があるの?」とナスカは息を切らしながら尋ねた。
 「あたしはこの先に何があるか知ってるけど、あなたは今は知らない。それだけのことよ」「……そんなものかしら」

 10代とも思えるような若い娘にそんなことを言われて、ナスカはムッとするかと思ったが、自分でも不思議なほど、何か納得してしまう力が、その娘の言葉にはあった。まるでナスカのことを初めから全て知っているような感じだった。そしてナスカもやはり、その娘のことを初めから知っているような、不思議な感覚を持っていた。

 娘がナスカを見て言った。「ずいぶん重そうな荷物を持ってるわ。そんなに必要なの?」
 「必要になるかも知れないものを持ち歩いているのよ」
 「先のことを心配したりする不安が、重荷になるの」持ち物を何も持っていない娘がそう言った。ここでもまた、ナスカは納得してしまった。この褐色の娘は一体、ナスカのどこまでを知っているのだろう?

 階段の途中、横にそれたところに小さな広場が見えた。少し先を行く娘が、その広場に入っていった。綺麗に刈り込まれた草地になっていて、平坦な広場の中央に二つの小さな盛り上がりがあった。短い草地がそのまま二つの盛り上がりになっていた。

 娘はその前に立つと、しばらく目を閉じてじっとしていた。雰囲気的にこれは墓標のようなものなのだろうとナスカは思った。その娘はじっと目を閉じているので、ナスカはそっとしておくことにした。

 その広場でナスカは初めて、今まで来た道、階段を振り返って眺めた。そこには青い海に丸いカーブを描く丘が浮かび、青い空が背景にびっしりとあった。城郭跡や街は見えなかった。

 ナスカはびっくりして娘の方を見ると、娘は既に階段を再び登りはじめていた。ナスカはまた慌てて後を追った。ナスカがいつも立ち止まると、あの娘はいつもナスカを先へと連れていく。まるでガイドのようであった。

 城郭跡や街のことを聞こうとナスカは思ったが、今度こそ娘を見失わないように追い付くことを考えているうちに、聞くのを忘れてしまった。見間違いかも知れなかった。

 それから後は、二人は無言で黙々と登りつづけた。二人で登っているのか、一人で登っているのか分からなくなった。しかしナスカからは、5段先には褐色の肌をした足元や腰や腕が揺れ動いているのがしっかりと見えた。

 周辺視野に広がる青い海はもう随分と下の方に移動していた。そこまで登ったかしら、と疑問に思うくらい、高いところにいた。まるで高原の中にいるような、爽やかな風が通る場所だった。とんびかかもめか何かの鳥が、海の上に建つ遺跡を回るように旋回して飛んでいくのが見えた。

 褐色の娘は振り返って言った。「あなたの旅はもう少しで終わりよ」

……

 ナスカ達は、遺跡の頂上直前まできていた。ガイドの娘は先に最後の石段まで登ってしまい、頂上の先を指差していた。頂上は階段の先をすっぱり切るように、平らな台地となっていた。娘は台地の先に進んでいって、見えなくなってしまった。

 ナスカは娘が指し示した方へ向かう。最後の登りには、今までは自然の中に溶け込むような荒々しい石の積み方とは違い、綺麗に切り出された正確なレンガ大の石で組まれた、鋭利な角を保った大きな太い柱が、ナスカを迎え入れるように、或は拒絶するかのように、階段の両脇に聳え建っていた。その大きなずんぐりとした柱の中ほどには鋭利な四角い窓が、柱の角を穿つように開けられており、それは両方の柱にあった。そしてその穿たれた四角い穴は、全体的にオレンジ色の光の膜で覆われていた。

 大きな二本の柱の間を通り抜けると、ナスカの目線の高さに平面状の台地が現れた。台地の上に足を置いた時、この遺跡での旅が終わった。

 そこは空の上に広がる草原となっていた。縦横はちょうど小学校か中学校のプールのような広さで切り取られ、その一面に短く緑の草が覆っていた。風は強くなく、優しく吹き流しており、草が揺れていた。切り立った階段状の遺跡の下の方から、時折暖かい風が吹き上がってきた。

 その高台からは、世界中を俯瞰しているかのような景色が広がっていた。海には白い帆船が浮かんでいた。

 ガイドの娘はいなかった。その代わりに、台地の中央に小さな木が一本と、石で出来た椅子に座った一人の女性と、そのすぐ横に立つもう一つの存在があった。台地の上にあったものは、草と、一本の木と、一つの椅子と、椅子に座る一人の女性と、側に立つ小さな紳士、それだけだった。

 椅子に座った女性は、片方の肘を立てて手の平に頬を載せ、上ってきたナスカをじっと見て、微笑していた。

 ナスカもその女性を動くことなく見詰めた。時間が止まっているかのような時間が、ナスカとその女性の間に流れ続けた。

 その女性は、ナスカだった。隣には小さな紳士が、寄り添うように立っている。その紳士はこの世界の男性ではないように思えた。超越した存在であることを主張する何かがあった。座っているナスカを力強く助けてくれている存在。それが解るのは、そこに座っているのはナスカ自身だからだ。

 ナスカはその超越した存在に助けられながら、そこにずっと居た。

 この世界で何があっても、何もなくても、今まで何もしてこなかったとしても、ナスカはそこにいた。この世界を俯瞰するこの高台の上で、ナスカは超越した存在に守られるようにして、ずっとそこに居た。