ナスカの旅 1─3:雨と海と風(170629改)

2017年8月3日

 ナスカは今、青い空と黄色い太陽の真っ只中にいる。足下には透き通る青い海と、海を掬うような白い砂がどこまでも広がっている。遠浅の海の中で、砂浜を形作っている珊瑚の破片が動く音だけが、カラカラと辺りに響いている。砂ではない、珊瑚のカケラだ。珊瑚のカケラは擦れ合って、小さなカラカラという音がするのだ。

 ナスカは水着でそこに佇んでいる。くるぶしまでの浅い海に座り込んで、下半身だけが海の中にある。ナスカの頭上の空は快晴だったが、少し離れたところには黒い雲が立ち込めていた。ナスカはその様子を、焦点がよく定まらない目で見ていた。

 小さな波が定期的に、優しくナスカの腰のあたりを通り過ぎていく。その優しい波は、ナスカの周りの砂を動かすまでの力はなかった。

 ナスカは島の飛行場に着くと、真っすぐに宿泊するリゾートホテルに向かい、直ぐに海に行ったのだった。天気は晴れ渡り、遠くから黒い雲が近づいてきているのが見えていた。ナスカにとってそれは、絶好のタイミングだった。

 青空を背景にした黒い雲が、海の向こうからやってきている。ナスカは今日、そうなることをを予め知っていた。初夏のこの島で、晴天の続く海は暑すぎて、そう長くは居れない。

 ナスカの頭上から照り付ける太陽は間もなく雲で覆われ、さらにその後、雨が降り出すだろう。ナスカは海の中で一人座り、雨が降り出すのを待っている。

 その時は来た。黄色い太陽は徐々に雲で隠されていく。最初は太陽が隠れたり、出てきたりしていた。そのうちに雲が黒みと重みを増していく。明るく照らされていた海の底の白い砂が、太陽に照らされなくなると本来の砂の色になり、海は透明になっていく。海ばかりを見ていたナスカは、目を自分の周りにも向けてみた。人影は無く、ナスカ独りだった。先ほどまで近くにいた若いカップルは、雨の降りそうな海から引き上げていった。

 時間を追うごとに周囲は暗くなり、その中にナスカはじっとしている。風は穏やかで、静かな雨を予感させていた。

 初めの雨が、ぽつりぽつりと海の上に丸い水紋を描き始めた。ナスカは自分の肩でも雨が落ちるのを感じた。しかしまだ、肩が濡れていくのと、風で乾いていくことが拮抗している状態の中にいた。しばらくそんな状態が続いた。

 そして海の上の水紋は、数えられる個数から、だんだんと数えきれない個数となってきた。雨が降り出したのだ。

 海に浸かっていない上半身に、雨が落ちてくる。髪は濡れて膨らみを失い、頬や首に纏わり付くようになってきた。それでもナスカは、雨に、海に体中が濡れるままにしている。南国の生温い海と、南国の生温い雨に囲まれる。ナスカには雨が海を叩く音しか聞こえなかった。それは、ナスカを一人にさせ、同時に周囲と同化させていった。手を海の底について伸ばし、上を仰ぎ見て口を開けてみる。雨が口の中に入ってくる。地球の下からと、空の上からの両方から水を受けて、ナスカは世界へ溶け出していく。溶け出し、溶け合い、世界と一体となり、ナスカという確固たる存在がなくなり、意味を失い、ナスカをナスカの形態に留める力を極限まで弱めていった。

 その解放感はナスカのエネルギーとして、浅い海の中に少しづつ放たれている。世界と溶け合い、エクスタシーに似た感覚はさらにナスカのエネルギーを海の中へ放出し、海と混ざり合い、そこは母なる海となった。その中には生命の源、生命のエネルギーが孕まれ、そのナスカの放ったエネルギーは、誰かのエネルギーに還元されるのだ……

 ナスカは、ついと立ち上がり、雨の中を波打際までフラフラと歩き始めた。髪は濡れそぼったままで、雨が滴り肩を通って流れていく。置いてあったサンダルに足を通し、海の中で軽く足を洗った。ナスカの頭の上から果てしなく落ちてくる雨を避けることなく、ホテルのビーチ側入口まで歩いていった。入り口の横にある足洗い場で再び(今度は徹底的に)足を洗い、そのまま奥に続くロッカールームからタオルを取り出して、簡単に体と髪を拭いた。そのままタオルを羽織って、水着とビーチサンダルのままエレベーターに乗った。

 フロントのある2階でエレベーターは一度止まり、若い男性が一人乗ってきた。その男性は水着姿のナスカを驚いた様子で少し眺め、何か納得したようにして眺めるのをやめた。ここはビーチと繋がったホテルなので、水着のまま部屋に戻ることは特別ではなかった。

 その男性が先にエレベーターを降りた。男性は名残惜しそうな様子をしていた。さらに数階上ったところで、ナスカは降りた。エレベーターの前にあるセキュリティゲートを通り、一人で泊まるには広すぎるナスカの部屋に戻った。

 部屋は大きな窓とバルコニーがあり、大きなベッドと小ぶりのソファ、テーブルと椅子が備えられている。ソファは広げるとベッドになるものだったが、一人で泊まっているナスカには関係のないことだった。

 入り口そばのバスルームに入ると、ナスカは濡れた水着を脱いで軽く洗ってからバスルーム入り口のハンガーに干し、それから温かいシャワーを浴びた。

 ナスカはバスルームを出ると、バルコニーの側にある椅子にバスタオルをかけ、ベッドの上に置いてあった薄い上着を被り、海に面したバルコニーの扉を開けた。そしてすぐに上着を脱いで裸に戻り、椅子に跳ねるようにして座った。

 雨の降り続く眼下の遠くの海を眺める。生温い風が部屋の中に入ってくる。ナスカは椅子で素足のままの足を組んで、海からの風を全身で感じ、そのまま静かに目を閉じたり、目を開けて遠くの海を眺めたりしながら、静かでシンプルな時を過ごす。

 外の海は静かな雨が降っている。風は緩く、白波は立っていない。音もなく静かに雨は降り続き、海は穏やかな波を寄せては引く。刻一刻と夕方は迫ってきて、静かな雨は海をどんよりと暗くしていた。雨が海の上を濡らし、雨はさらに砂浜をうっすらと濡らし続けている。

 波の音には迷いがない。穏やかで、規則的で、連続的で、流れの中にあり途中で止まったりはしなかった。それに比べて人間の行動は迷いだらけだ、とナスカは感じている。迷い続けている。人間は、自分は、何かを勘違いして生きていると思う。

 水分を含んだバスタオルの上で、裸のままぼんやりとナスカは過ごしていた。窓からの風は吹きやむことはなく、ナスカは風に肌を撫で続けられた。

 そんな風達に押し出されるように、ナスカはフラフラと立ち上がってバスルームに向かった。さっき脱いだ水着が、まだ濡れたままバスルームに垂れ下がっていた。びっしょりと濡れているわけではなく、全体的に水分を含んでいて、吊された水着の下の方では、水分が重力に引っ張られるように水が滴っていた。それは日常的にたまりつづけた滓のようなものが、ナスカの体から引っ張り出されていくようであった。バスタブに湯を張り、体を温めた。