ナスカの旅 1─2:空の楽園(170703改)

2017年8月3日

 ナスカは今、大型旅客機の最後部にいる。大型旅客機の後部に座席の無い空間がぽっかりと存在することを、ほとんどの乗客は知らない。

 その広い空間で、ナスカのように伸びなどをしてゆっくりと過ごす乗客は、そういないであろう。先ほど客室乗務員から「トイレは空いてますよ」と言われてしまったくらいである。

 「ええ、狭い席から解放されているだけですので」とナスカは返した。客室乗務員は苦笑しながら「狭い機内ですものね」と言った。

 飛行機の座席は、新幹線などと比べて一人分の座席が狭い。さらに今日のナスカの席は、特別な事情が発生していた。

 乗務員に声をかけられたこの時「すみませんが、どこか空いている席に移動することはできないでしょうか?」と、どれだけお願いしようかとナスカは考えたのだった。

 しかし、そうしなかった。

───

 ナスカは一人で、一泊旅行に出掛けた。旅行先は離島なので、飛行機で3時間近くかかる。

 飛行場のカウンター横にある自動発券機で、ナスカは座席指定の手続きをしていた。予約が遅かったので窓際は無理かと思っていたが、一席だけ空いていた。ナスカは一度そこを指定したが、その座席の隣に“赤ちゃん連れ”であることを示すマークがあった。

 ナスカはそこで考えた。その赤ちゃんがぐずったりしたら、そして乗っている間中、泣き続けたとしたら(十分に有り得る話だ)ナスカがこれからイメージしている快適な空の旅、例えば、雲上の景色をゆっくり眺めながら一年後の自分の姿を思い描く、という風にはいかないかもしれない。ナスカは機械の前でしばらく思案した後、その席は諦めて、違う場所の通路側の席を指定した。

 飛行機に乗って初めて分かった事があった。国内線でも前方の一部はファーストクラスのような広い席になっており、追加料金を払えばその席に座ることができると知った。しかし、いまさら変更しようとは思わなかった。

 ナスカが指定した座席は、窓際に1席を残した、二席並びの通路側の席であった。両方を席で挟まれた中央席に比べれば、まだいいと思えた。

 ほぼ満席状態と聞かされていた機内で、隣に来る人はどんな人か、通路を歩いて過ぎていく人達を半ば面接するかのような目で、一人一人眺めて待っていた。

 前方から、ネクタイとスーツを着込んだ、初夏なのに暑苦しい姿をした“巨漢”と言える程の男性が、のしっのしっ、と歩いてきた。狭い通路が、ますます狭く見えた。あの男性が隣に来たら大変だな、とナスカは他人事のように考えた。数百人の乗客がいる大型機で、あの男性が隣に座ってくることはまずないだろう、と考えていたのだった。

 だいたい、普通には座れないだろう。相撲取りの力士は二つの座席をつなげて座る、というような事をテレビで見たことがあったのだった。

 ナスカのところまで来て、その男性が「すいません」と言った。

 ナスカは吃驚し、その感情が表情に出かかった。しかしそれを決して悟られてはならない。感情を押し殺し、ナスカが座ったままではその男性は奥に入れないだろうと、席を一度、優雅に見えるように立った。男性はそのナスカの姿を確認すると、大きな荷物を天井に付いている荷物入れに押し込め、窓際の席に、自分の体をねじ込むようにして入っていった。

 ナスカは、無表情で、呆然と眺めていた。

 体の大きさから確かに、ねじ込むようにしないと席に入らない。さらに男性が座ると、ナスカの席との間にある肘かけに男性の肉に食い込んでいた。つまり、ナスカ側に男性の肉体が、紐で縛られたハムのようにせり出していたのである。

 これから3時間、この男性の隣でナスカは過ごすのだ。

 そのはみ出した肉に触れることなくナスカが座席に着くことは、不可能だった。いつまでも通路に立っているわけにはいかなかった。このままではこの状況を嫌悪している、と男性に分かってしまうではないか。それは避けなければならない。ナスカは遂に、しかしどうということもない様に、優雅に席に着いた。

 さりげなく反対側に極限まで寄って座った。だがしかし、ショートパンツを履いたナスカの太ももが、ひじ掛けの下からはみ出た男性の肉に触れる。それは柔らかく、生暖かく、ナスカを押しやる圧力を感じる。狭い座席がなお一層、狭くなった。

 さらにナスカの臀部にも触れており、つまり太ももから臀部は男性と密着しているのである。ナスカのくびれた腰には触れないが、腰から上、肩にかけては畳み込むかのように男性の上半身が、温かいものが密着してくる。

 男性はナスカを見ることなく、いや、見ないようにして、スマートフォンにイヤフォンを挿して映画か何かを見はじめた。そういえば最近の飛行機は機内モードに設定しさえすれば、スマートフォンなどをずっと使えるようになったんだな、などと考えて気を反らそうとしたが、それは失敗していた。

 飛行機は離陸し、若干機体を揺らしながら上昇を続けている。ナスカは体を固くして、じっと前を見ていた。飛行機の中が暑く感じ、空調がおかしいのではないのか、と思った。

 足をぴったりと閉じて、胸を隠すようにして腕を体に寄せている。見ず知らずの男性に、暑めの機内で“ぬるいもの”に触れている。

 飛び立って20分くらいたった頃、ベルト着用サインが消灯した。

 遂に消灯した、待ちに待った、という瞬間だった。ナスカはすぐにでも立ち上がりたかったが、それはあからさまであり、少し待つべきだと考えた。

 前方の程近い場所に、トイレが見えていた。ナスカが狙うトイレはそこではなかった。もっと遠く、機内の最後尾のトイレに行く、或は行くフリをしようと考えていた。その近くのトイレに誰かが入った。そのタイミングをわざと狙い、仕方なくという様子で、ゆっくりと、しかし静かにベルトを外して席を立ち、後方のトイレを目指して歩き出した。

 つかの間の解放。それはやり場のない怒りを含んだものだった。この広い機内でなぜ私の隣に来るの? なぜあの時、赤ちゃん連れマークに私は気付いてしまったの?

 飛行機の最後部のトイレを目指し、歩く。その道中、ナスカが最初に指定しようとした赤ちゃん連れの席を見てみようと思った。

 その窓側の席には、他の誰かが座っているだろうと思っていた。しかしそうではなかった。

 ナスカが見たものは、若い母親と、空いている窓際の席に置かれた赤ちゃんが、二人寄り添って眠る姿だった。窓からの陽光が二人を明るく照らし、その場所は神聖で暖かい空気で満ちている。他人が入る事が許されず、高貴なもので守られたような空間だった。

 そこは暖かく、そして静寂だった。騒がしい怒りに包まれていたナスカの気分が、一気に氷解した。

 ナスカは思った。自分の判断は間違っていなかった。もしナスカがあの窓際の席を指定していたら、母親は自分の膝に赤ちゃんを載せ、窮屈な姿勢で3時間を過ごすことになっていただろう。それが今、親子は広くて明るく快適な空間にいる。

 これで良かったのだった。ナスカの選択は、この天使のような親子のためだったのだ。本物の天使は見たことはない。

 救世主のような気分になり、軽い足取りで最後部まで歩いていった。

───

 いつまでもこの広い空間で伸びをしているのもどうかと思い、ナスカは本当にトイレに入ってみることにした。

 トイレの中は、飛行機の中で唯一、プライベートな空間だった。ドアを閉めて鍵をかければそこは個室であり、誰からも邪魔をされない場所となる。一人の時間、空間を過ごせる貴重な場所だった。

 ナスカはひとまず便座に座った。ここでしばらく、何もせずに過ごすのだ。

 あの座席の窮屈な時間との対比で、開放感による快感を感じた。ここは、高度一万メートルで数百人が時間を過ごしている場所の中でポッカリと空いた、誰にも見られない空間、オアシスであった。

 しかしそれは束の間の刹那的な時間と空間であり、ドアを出ればまたすぐに、あの席に戻らなければならないことは十分に分かっていた。

 トイレの中でずっと過ごせるなら過ごしたい、とナスカは思った。しかし機内のトイレの数は限られている。外に誰か待っているかもしれない。ナスカはいつも公共の場でのトイレの中では、外で待っている人の心配をするのであった。

 ナスカは諦めてトイレを出る事にした。何も落としていない便器を流してから、外へ出た。ドアの外には誰も待ってはいなかった。

 あの親子のためだったとはいえ、自分の席に戻るのは苦痛だった。飛行機の最後部で、伸びをするフリをしながらできるだけ長い時間を過ごす。いっそのこと、ここでずっと立っている方が楽かもしれない。

 しかしそうしているうちにも、何人かがトイレに入っては出て、乗務員も仕事のために入れ代わっていく。落ち着かない。

 一度深呼吸をしてから、席に戻るためにゆっくり歩き出した。可能な限り、ゆっくり歩いた。天使達をちらりと見た時は、少し勇気が出た。そして、まだ2時間はあるであろう戦いの場へ戻っていった。

 ナスカは席に近づき、一度男性のことを見てみよう、と思った。今まで意識的に、男性に視線を向けていなかった。無視しようとしていた。

 席の横まで来ると、ほとんど初めて隣の男性をしっかりと視野に入れた。そして、驚いた。

 男性は大きな体を精一杯、窓側に寄せていた。寄せているだけでなく、窓のある壁に向かって、自分を押し付けている。腕はいびつな姿勢で自分の方に縮こまらせており、壁と自分の腕に挟まれながらも、懸命に壁に向かって自分の体を押し付けている……

 男性は相変わらず、スマートフォンで映画のようなものを見ていた。こちらを見てくる様子はない。意識的に見ないようにしているようにも思う。

 見るからに苦しそうだった。苦しい中で、そんな姿勢を保持している。そして、スマートフォンで映画を見ている。まるで、苦しい意識を反らそうとするかのように。

 それでもナスカの席の方に、肉がはみ出るには出ていた。しかしこの男性は、座席に座ったときからずっとそんな無理な姿勢で、出来るだけ隣の人に迷惑をかけないでおこうと、自分を犠牲にして最大限の配慮をしていたのだ、ナスカに対して。

 その姿を見て、ナスカは自分が重大な罪を犯したように感じた。

 私は、なんてひどい事を考えていたのだろう。なんて罪深いのだろう。

 この人は、必死で私の事を考えていた。なんとか隣の人に迷惑をかけないでおこうと、最大限の努力を続けていた。

 そんな人に対して私は、私は、この人を恨んでいた。

“なぜあなたは、よりによって私の隣なの? この広い機内でなぜ? あなたのせいで私の旅がどうなったと思うの? なぜあなたは……”

 ナスカは、深い自己嫌悪に陥り、そこに立っていた。男性のこの優しさに全く気付かずに、この一時間を過ごしていたナスカ! 

 ナスカはそれでも、座らないわけにはいかなかった。申し訳なさそうに、ゆっくりと席に着き、視線を前に戻した。ナスカの太ももと肩に触れる柔らかいものは今や、優しい感触に変わっていた。

 地獄だと感じていたさっきまでの時間と空間が、完全に変化した。まるで天変地異でも起きたかのように、真っ逆さまに変わっていた。人の優しさに触れ、暖かな気分に包まれた。

 “この世界は、なんて優しいのだろう。私はなんて無知なのだろう”

 空の上で、天使の親子と、優しい大きな人を想いながらの、幸福感で満たされた空の旅。この世界は楽園だった──

 人とは、全く同じ境遇でも感じ方次第で天国にも地獄にもなることを、ナスカはこの時、真に理解した。そしてこれからどんなことがあっても、生きていけると思った。

 しかし一方で、ナスカは知っている。

 自分の“感じ方”は、嵐の時の風ように、激しく簡単に変わってしまうことを。