『からっぽ紳士』

初老の男が、駅前のベンチで寝ていた─ 寝てはいない。静止しているだけだった。

彼はつい先日まで、いや、もう数年たったかもしれないが、勤め人として働いていた。真面目に働いた。

その役目が終わり、いつも通っていた駅前にある、木陰のベンチに静止していた。

空(くう)を見ていた。

… びくっ。

寝ていたようだ。

私は深夜の通勤電車の中で、カバンを膝に抱えて、現役を引退して駅前のベンチで寝ている夢を見ていた。

気持ちよかったなあ。毎日の勤めから解放されて自由になり、朝から木陰で寝ている自分。まだ降りる駅まで数分ある。寝ていよう。

… びくっ。

うぃ~。寝てた。会社のデスクで、昼休みにまた寝てしまった。まだ昼休みは終っていない。寝よう。

ふあ~。

彼はやはり、駅前のベンチで静止していた。何もしてない。

彼には何も残っていなかった。地位も名誉も金も、すっかり意味を無くしていた。

何もない。今までの蓄積と呼べるものは、いま思い起こせば、何もない。そしてこれから、何かが待っているということもない。

彼は、からっぽ紳士だった。

─ いや、みんなからっぽなのよ。何かが詰まってるというフリをしているだけ。

#人生の最期 #人生のゴール