ナスカの旅 1─4:夢想の世界との危うい境界線(170626改)

 ナスカは食事に出掛けることにした。明るいグレーのワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織り、小さなハンドバッグを一つ肩に掛けると、ローヒールパンプスを履いて5階にあるレストランへ向かった。美味しいものを食べるという悦びもまた、何かを渇望しているナスカを満たしてくれるはずであった。

 ホテル内にいくつもあるレストランの内、小振りというには広く、広大というには小ぶりなフレンチのレストランをナスカは選んだ。レストランの中はほぼ満席であったが、窓際の小さなテーブルが二つほど空いていた。それは空いているというよりは、たくさんの人達の中でポッカリと空けられた空間、オアシスのようであった。

 ナスカは予約をしていなかった。予約をしていると、そこには義務感が発生してしまうように思えた。開放感が損なわれるような気がした。

 入り口の受付でウェイターに声をかける。何名様でしょうか、と一人で来た人間にステレオグラムなことを言うウェイターが世の中には五万といるが、このホテルのウェイターは一人のナスカを見て「一名様ですね。ご案内いたします」と言った。ナスカは軽く頷くだけでよかった。

 柔らかな光の中の窓際の小さなテーブルに案内される。窓からは明るく照明が施された、ホテルの表玄関の見えた。あともう一つ、小さなテーブルが空いていた。ここは静かなオアシスだった。

 ナスカは“女性専用プラン”というコースをオーダーした。最初にオードブルが運ばれてきた。可愛らしく盛りつけられた、いかにも女性が喜びそうな見た目だった。実際、ナスカはその盛り付けを喜んだ。その後のスープ、魚のメイン料理、デザートと、華やかで美味しい食事を楽しんだ。ナスカは賑やかなレストランの窓辺で、静かに喜んでいた。

 食事を摂るという行為は、それだけで人間に喜びを与えてくれる。お腹が空く、食事を摂る、満たされる。この単純なサイクルで、しかもお腹を空かして食事を摂るという簡単な行為で、人間は簡単に喜びを感じることができるのだ。私たちはあまりにも複雑なもので、満たされようと努力し過ぎているのかもしれない。

 食事でなくてもそれは適用される。甘いスイーツを食べて、喜びに包まれるのもいいだろう。実際、ナスカは嫌な事があっても甘いスイーツを食べる事で、そのことをすっかり忘れることが出来る。それは特技と言ってもいい。

 とにかく、食事はナスカを喜びで満たしてくれた。リゾートホテルでの優雅なディナーなのだ。それはナスカに上位の喜びを与えることに成功していた。

 フラフラとナスカはホテルのフロント前を通り、正面玄関からホテルを出て行った。月夜に誘われるように、ホテルの脇を回り込んで夜のビーチに出た。ホテルの周辺は明るかった。暗い夜道というものは、このホテルの周りには存在していなかった。

 昼間に行ったビーチに出た。浜辺は想像していたよりも明るく、美しく、青白く浮かんでいた。今日は満月であることをナスカは知っていた。

 昼間の雨雲はいつのまにか、すっかりとどこかへ去っていた。満月は明るく海を照らしていた。砂は砂でなく、珊瑚の欠片であるために白い。そしてその白い珊瑚の細かな欠片はそのまま海の中へ潜り込み、月の明かりを海底から白く反射させていた。海は透明だった。浜辺は海からも光っていた。

 それは、あまりにも美しい光景だった。光る海の底から、夜の海の精がナスカを誘っているようだった。ナスカはその誘惑に素直に従い、パンプスを脱いで裸足になり、海の中に誘い込まれていった。夜の海は冷たくもなく、波もなく穏やかで、ナスカの足を冷やすことなく優しかった。あたりは暖かい風と満月の光に支配されていた。

 ナスカはワンピースを片手でつまみ上げ、足首の上まで海に浸かるところにいた。満月の光に包まれる海の中に、忽然として一人立ち尽くしていた。海を見渡し、見尽くす。海の底がハッキリと見え、そこには白い粉しかなかった。透明な水がその白い世界の上を漂っており、まるで海の底を支配下に置く精のマントだった。この世界は、なんと美しいことか。

 ナスカはしばらく立ち尽くし、夜の光の中で波の音を聞いていた。

 その後ナスカはパンプスを手に取って、裸足のまま白く浮かぶ砂浜を歩いた。時々波に浸かるような、海と陸地との間、その微妙な世界を渡り歩いているのだ。この世界と夢想の世界との危うい境界線の上にいるようだった。そのことがナスカに奇妙な解放をもたらした。今、ナスカは人間的であり、自然の一部であり、地球の一部でもあった。

……

 足を洗ってから部屋に戻り、パンプスと服を脱ぎ捨て、自動点灯の照明灯のスイッチをオフにして部屋に明かりがつかないようにした。カーテンが開け放たれたままの窓からは、煌々と輝く満月の光が、部屋を青く照らした。

 その青い光は、部屋のカーペットの上を窓の形に切り取っていた。そこにナスカは座り込み、買ってきたシュークリームの一つを手に取って、丁寧に包み紙を開いた。それを一口かじると、最初はパイ生地の味がして、二口めにはクリームのあるところに到達し、口の中は甘い世界に満ちた。

 全裸の一人の女が、淡く青い月の光の中で、喜々として、黙々と過ごしていた。