今いる場所

修三は今、出張の帰りで新幹線の中にいる。会社で頑張ってはいるが、中途半端なポジションにいるという表現が当てはまるような立場にいた。

普通車指定席、通路側の座席を取り、帰路についていた。ふと斜め前の通路側の席を見ると、修三と同じく40代半ばの男性が座っていた。その男性は座席前の小さなテーブルを開き、そこにバインダー型の手帳、付箋がたくさん貼付けられているメモ、ノート、大型のスマホ、ボールペンをそのテーブルに広げていた。そして時々考え込み、メモを取り、スマホで調べ物をしたりしていた。忙しく働いているといった印象であった。

修三は思った。

「移動中も仕事しているような忙しさ」「そしてエコノミークラスに座る」

グリーン車ではない。漫然とビールを飲んで赤い顔をしている愚かな乗客と変わらぬ席で、忙しく働いているのだ。悲しい努力、無駄な努力、そして、貧しい。或は、そんな自分に酔っている、という可能性もある。しかしそれはつまり、むなしいことだ。

修三は人を見るとき、その人そのものではなく、その人がどんなポジション、立場にいるのか、どんな会社に勤めているのか、といったような点を重視した。その人が何をしているのか、ではなく、その人の「入れ物」こそが修三にとっては重要なのであった。それは自分にも当てはまる。自分は今、どんなポジションにいるか、どんな入れ物に入っているか。そして、どんなクラスの座席に座っているのか。修三は今、エコノミークラスの車両にいる自分が許せなかった。

修三は悔しかった。俺はもっと素晴らしいところにいるべき人間なのだ。仕事の移動もエコノミークラスに座っているような人間ではなく、本来はグリーン車にいるような人間であるべきなのだ。

そう考えると、今の自分がひどく惨めに感じた。

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小さなテーブルで忙しくしていた中年の男性は、仕事ではなく趣味の「全国寺社巡り」の下準備をしていた。行きたいところをメモし、スマホで調べ、手帳に予定を記入していった。ワクワクする時間を過ごしていたのである。その時、自分がどこに座っているかなど、全く関係がなかった。自分のやりたいことが出来れば、場所は関係なかった。エコノミークラスに座っていようが、グリーン車に座っていようが、そんなことはどうでもよかった。

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